白という色 《月刊スキージャーナル2007年11月号》
現在、日本国内においてスキー場の代表取締役社長の立場にいる人間の数は約600人。だが、今のように低い位置からスタートし、紆余曲折と蛇行を重ねてゴールにたどりついた人間はいないだろう。確実に支持層を広げる開田高原マイアスキー場。その有形無形の個性の確信を探る。
「自分でスキー場をつくれば、いつでもスキーができる 」 大学を卒業するころ 「こどもの夢みたいなこと 」を考えた今孝志は、約20年かけてその夢を実現した。客観的に見てゼロよりも少し下から出発し、現在、開田高原マイアスキー場代表取締役であり、スキーアカデミー校長。紆余と曲折が連続する物語の始まりは大学1年から3年間つづけたアルバイトだった。
どんな理由があっても、やめれば逃げたことになる
たまたまスキージャーナル誌のアルバイト情報を見て、いくつかのスキー場に履歴書を送ったところ、返事があったのは妙高池の平だけ。昼はスキー学校、夜は100人ほど収容するロッジが勤務先。 「選択肢はなかった 」
当時、スキー学校は、おおむね封建的な世界だったのだが、今が行った先はそれに加えて若かった。スキー学校とロッジの従業員、合わせて20数名の最高齢が27歳。夜になると車座に座らされ、ジャンケン。負けた人間にウイスキーをなみなみついだグラスが手渡され、全国共通の台詞が添えられた。 「酒を飲めない奴はスキーはうまくならない 」 まともに喉をとおるのは一杯目だけ。二杯目からは首にバケツを下げさせられ、 「毎晩、10回はジャンケンに負けた 」
リフトの切符切り、雪かきをはじめ、仕事の内容はスキー教師プラス雑用全般。ロッジに引かれた温泉のパイプに穴があくと 「調べてこい 」 パイプは川の底に敷設されていて、裸足で入ると5分ももたなかった。
ロッジの生ゴミを捨てに行くことも役割のひとつだった。 「ほら、捨ててこい 」 ビニール袋をぶつけるように投げられ、受け止めるといつも破れた。
2年目、新たにバイトがふたり入ってきたが、すぐに 「こんなの人間の生活じゃない 」 「いや、いいこともあるから 」 今は必死になってなだめたが、1週間でふたりともやめてしまい、ふたたび最下層に逆戻り。
「やめようとは思わなかった。やめてしまえば、そこにどういう理屈をつけても逃げたことになる。いじめられることよりも、逃げることのほうが耐えられなかった 」
そして迎えた3年目、なぜか先輩たちがいっせいに退職。 「いきなり民主主義になった 」
それでもスキーは楽しかった。毎日、スキーをして生きていけたら、どんなに幸せだろう。大学卒業がせまるにつれて、そうした思いがどんどん強くなっていったが、どうすればいいのか、なにもわからなかった。スキー業界にもぐりこもうにも 「趣味でスキーをやってきただけで、世間に通用するような実績がなにもなかった 」
考えたあげく、ひとまず日本脱出を決意。スキーリゾートマネジメント学部を持つ 「コロラド・マウンテン・カレッジ 」に入学を決める。アメリカを選んだのは 「すでに多くの日本人がオーストリアなどで学んでいるし、挫折した場合に英語のほうがつぶしがきく 」という計算に加え 「妙高でのアルバイトの日々の反動も大きかった 」
右も左もわからないからとりあえず寮に入ったものの、ルームメイトのアメリカ人はまるで今に関心を示さず、なにも教えてくれない。 「それは自分の役割でも仕事でもない 」というごく基本的なアメリカ人の態度だということを理解したのはそれからしばらく経ってからのことで、その時は 「なんて冷たいんだ 」 だが、その無関心さに慣れていくにつれて 「かまえたり、気取ったりする必要がない 」ことが次第に心地よくなり、なにもなくても生きていけそうなアメリカが好きになっていった。
生活費はおもに芝刈りのアルバイトでまかなった。勤務時間は朝の5時からスプリンクラーがまわる7時15分まで。黙々と芝を刈り、刈った芝を捨て、1ドル190円台なかばの時代に月収2,000ドル。授業料と生活費はそれで充分だったし、なにより英語漬けの日々から逃げられるのがありがたかった。
カレッジは、スキー場にかかわるアルバイトをすると、それを単位として認めるというシステムを採用していたので、冬になると高級リゾート、ヴェイルでスキー教師として働くことに決めた。
ヴェイルでの日々は驚きの連続だった。そしてそれらの驚きは、今の心の奥底に深々と刻まれた。
最初の驚きは、面接だった。面接官はアメリカ職業教師連盟副会長であり、ヴェイルスキー学校のテクニカル・ディレクターだったホースト・エイブラハム。
大学4年生のときにSIAのステージ?を取得していた今は、それなりの準備をして面接に臨んだのだが、エイブラハムの最初の質問はまるで予想外のものだった。
「きみはスキースポーツになにを探すのか 」 考えれば考えるほど答えがわからなくなる質問だった。それまで、そんなことを聞かれたことはなかったし、考えたこともなかった。
当時、ヴェイルのスキー学校では450人ほどのスタッフが働いていて、指導法、気象学、救急法などのテーマに沿って、毎日ミーティングが行われていた。スーパーバイザーが司会進行役となり、ミーティングはフリートークの形式で行われた。発言は自由。1年目の人間も20年目の人間も、みんな 「タメ口 」で 「自分が思うことを、誰もが堂々と話せることに感動した 」
スキー教師としての今につよい影響を与えたのは次の言葉だった。
「なぜうまいかわかっていてうまい人、なぜうまいかわからないけどうまい人、なぜ滑れないかわかっていて滑れない人、なぜ滑れないかわからずに滑れない人。スキーヤーはこの4種類に分かれる。なぜ自分が滑れるのかが理解できていなければ、絶対にいい指導者にはなれない。大切なのは『なぜ』を何に対しても持つことだ 」
ヴェイルの創始者と出会ったことも大きな出来事だった。4人の創始者のうちの1人は、今にこう言った。
「僕はここに理想的な山岳リゾートをつくりたい。ここに来た人たちが『こんなところに住みたい』『ここでこれからの人生を送りたい』と思うような町を作りたいんだ 」
留学は予定より長くなり、2年2ヵ月におよんだ。
雪景色の中で思った。やっぱりこの色が最高だな
アメリカから帰ってすぐ、SIAが企画した交換スキー教師留学制度の第1号としてニュージーランドに留学。
ひとシーズンを過ごした今は“こどもの夢みたいなこと”を実現するための方法を真剣に考える。 「どんな仕事をすれば、どんな道を通れば、まわり道をしないでスキー場開発に向かって走っていけるだろうか 」