My favorite ski resorts《月刊スキージャーナル2000年8月号》

5. St.Anton&St.Christoph (オーストリア)

 日常の移動を目的としたスキーはスカンジナビアで誕生したと言われているが、それをスポーツとして発展させてきたのがオーストリアである。アルペンスキーの創始者と呼ばれるマティアス・ツダルスキーが1896年に「山岳スキー滑降技術」を出版。以後、ハンネス・シュナイダー、トニー・ザイラー、カール・シュランツ、フランツ・クランマー、アンネマリー・モザー・プレル、そして新しいところではヘルマン・マイヤーなど、数多くの『英雄』を輩出してきた国オーストリア。日本のスキースポーツの生みの親もまた、この国である。

 明治44年にオーストリアの陸軍参謀少佐テオドル・フォン・レルヒが新潟県高田(現在の上越市)の金谷山で指導したのが、日本のスキーの始まりと言われている。その後、昭和5年にアールベルク出身のハンネス・シュナイダーが来日し、野沢温泉や菅平で講習会を開いたのを機に、スキーというスポーツが日本各地に広まった。

 そんな本家本元オーストリアにおけるスキー場の代表が、St.Anton & St.Christophだ。位置的にはチロル州の州都インスブルックの西96キロ、車で約1時間半。電車では1時間23分。人口2,200〜2,300人ほどの寒村だが、初めて訪れたとき、ここが「アルペンスキーの聖地」という想いがあったせいか、妙に緊張感を覚えたことが記憶に残っている。

 スキー場は標高1304メートル〜2811メートル、鉄道式ケーブルカー1基、ロープウェイ5基をはじめ、リフト・Tバー合わせて70基でコース全長約300キロを網羅している。クラシックな雰囲気の街並はホテル62軒、ペンション248軒、コンドミニアム124軒、レストラン・バー66軒、その他カーリング、スケートリンクなどのスポーツ施設といった概要であるが、なんと言ってもSt.Antonに行ったら立ち寄っていただきたいのがSki Heimat Museum(スキー郷土博物館)だ。スキーの歴史を知ることができるだけではなく、ロープウェイ・リフトの発達史、アールベルク峠の変遷、鉄道の歴史などの記録がなかなか興味深い。また姉妹都市である野沢温泉を紹介する展示コーナーなどもある。先人たちの努力には頭が下がるだけでなく、温故知新の言葉どおり、これからの道しるべを教えられているような気にさせられる。

 ここでの宿泊のお薦めは「Schwarzer Adler」だ。50室しかないが黒鷲館と呼ばれ、創業400年の歴史を誇る老舗中の老舗ホテル。外観を飾るフレスコ画が美しい。

 St.Antonに隣接してSt.Christophのスキー場が広がるが、ここにはスキー指導者界では世界的に有名なBundes Sportheim(現在はブンデススキーアカデミーと改称)がある。1925年に開設されたオーストリア文部省直轄の国立スキー教師養成学校で、約200名収容の講堂をはじめ、ミーティングルーム、ビデオルームなどの教育システムは、さすがに充実している。またSt.Christophという名前は、14世紀はじめ、雪に難渋していた峠越えの旅人たちのために、聖者が救護所(ホスピッツ)を設けたのが由来と言われている。ここで泊まるならBundes Sportheimの前にある「Arlberg Hospiz」が僕のお気に入りだ。5つ星の由緒あるホテルでダイニングに大きな暖炉がある。

 オーストリアのスキー選手層の厚さは、ワールドカップを見れば説明は要しないが、強さの秘密は子供のころからの選手養成システムにある。現在、国立のスキー専門中学と高校が併せて7校。しかしながら一流選手になれるのはほんのひと握りで、卒業生の多くは指導者の道に進む。選手を育てるには優れた指導者が不可欠だが、オーストリアではこの指導者の質が非常に高い。もともと国家検定制度を導入していることで知られるが、この「オーストリア国家検定スキー教師」の試験を受けるためには計100日以上の研修が義務づけられている。教育、地形、自然環境、観光学、法律、語学等、スキーの技術や指導法以外の知的能力も要求され、そのレベルは「スキーが国技」の国だけに、かなり厳しいものがある。ちょっと余談になるが、今をときめくヘルマン・マイヤーもスキー教師の資格を持っている。彼はザルツブルク州のフラッハウという村の出身。両親がスキースクールを経営していたことから、幼いころから当然のように競技に没頭していたが、15歳のときに膝を故障し、高校を中退。挫折を味わって地元に戻ったヘルマンは、職業訓練校に通って左官の国家資格を取得。レンガ職人となって連日の重労働から強靭な体力を身につけ、冬季はスキー教師の資格を得てスキースクールで働いていた。それでも競技への夢を捨てきれなかった彼は21歳で復帰し、3年後のヨーロッパ選手権で総合優勝。翌年にあたる97年、ワールドカップ初出場にしてスーパーGで優勝し、一気に注目を浴びる存在となった。そして98年の長野オリンピックでのスーパーGとGSの金メダルは周知のとおりだ。「名選手名監督にあらず」ということわざがあるが、彼はそのどちらも兼ね備えているスキーヤーに思えてならない。あの身体からは想像できないあの繊細なスキー操作が、競技を離れていたスキー教師時代に学んだ正確な理論とメンタリティからきていると思うのは僕だけだろうか。

 日本のアルペンスキーに夜明けをもたらしたハンネス・シュナイダーは、第二次世界大戦中にナチスから逃れてアメリカに亡命している。そこでも多大な功績を残していることも最後に記しておきたい。