Something Special を求めて《月刊スキージャーナル2000年1月号》

スキー産業の、もっとも閉塞感がただよう 「スキー場経営 」の真っ只中にいて、法螺とも本気ともつかない飄々としたポーカーフェイスで、しかも極めて生真面目に考え、実行に移す一風変った支配人がいる。 「スキー場にクジラが3頭ぐらい泳いでいたら子供たちが喜ぶんじゃないか 」。霊山として知られる長野県・御岳山の麓に広がる『開田高原マイア』で、その支配人はいつもそんなことを考えて過ごしている。とにかく人に喜んでもらいたい。みんなの笑顔が見たい。そう思うと居ても立ってもいられない性分らしい。苦戦を強いられ、苦虫をかみつぶしたような表情ばかりが目につくスキー場関係者たちの中で、笑顔でスキー場の運営に日々取り組む男。彼に会うために『開田高原マイア』へと向かった。

 長野県木曽福島から御岳山(3067m)をめざしてハンドルを切ると、周囲の景色から人工構造物が消え、ブナや白樺の木々に取り囲まれる。美しい林間道路を抜けて行くと、荘厳かつ秀麗な御岳山の山容の麓に『開田高原マイア』のコースが視界の隅に浮かび上がってくる。日本にもまだこんな場所が残っていたんだ、と思わずつぶやいてしまいそうな、見事な景観だ。

『開田高原マイア』は96年の12月にオープンし、この冬4シーズン目を迎える。スキー場の最大の特徴は、コースの標高が高いことによる豊富な積雪と雪質の良さにある。ベースの標高が1557m、コース山頂の標高は2120m。日本で2000mを越す標高までリフトが架けられているスキー場はごくわずかで、長野オリンピック・ダウンヒル競技が行われた八方尾根山頂が1831mであることを思い出してみると、いかに『開田高原マイア』の標高が高いかがわかる。

 その眺望の素晴らしさは折り紙付きで、コースのどの場所からでも、目前には木曽駒ケ岳や乗鞍岳を望むことができる。コースの最長滑走距離は約3000m。起伏に富むロングランが楽しめるのも魅力のひとつだ。恵まれた自然景観とコース・雪質の良さに加えて、利用者のことを考えた工夫が随所に施されているのが『開田高原マイア』のもっとも得意とするところであり、そこに支配人、今孝志の手腕が活かされている。

 早くからスノーボードパークやポール専用バーンを設置し、ファミリー層やキッズへの細かな配慮が成され、開業から多くの利用者に親しまれてきた。スキーアカデミーでは受講者の滑りのビデオを合成してプリントし、その滑りをより具体的にわかりやすく見せるカルテを作成するなどして好評を博しているだけでなく、スキースクールの新しいタイプのサービスとして他のスクールからも注目されている。

 事務所に足を踏み入れると、今孝志はルーペを覗き込みながら手慣れたふうに写真の選定作業を行っていた。かつて3年ほどスキー雑誌の編集者をしていたころの彼の姿がそこにあった。連続写真のカルテづくりなどは、そうした彼の経験から生まれているのだろう。

「いや、いや、いや、よく来てくれましたね 」 そう言いながら彼はソファを勧めてくれた。誰からも愛されるであろうその笑顔が、彼の人柄を物語っている。

 まずは、彼の経歴を紹介しよう。

「大学4年間、妙高池の平の妙高プロスキースクールでアルバイトをしていたんですよ。たまたま見たスキージャーナルのアルバイト募集が目に入っていくつか応募したら、そこだけが返事をくれたものですから、そこに決めたというわけです。その時はリフトの切符切りから雪かき、厨房の手伝いまで何でもやらされましたね。でもスキーができるだけで幸せでしたし、今となって考えてみると、そこでの経験というのも非常に大切だったと思います。大学4年の冬に万座でSIA検定を受けて合格したんですけど、さぁ受かったって喜んでいたら、たまたま来日していたオーストリアのデモチームの滑りを見るチャンスに恵まれたんです。それまで外国のトップデモなんてまったく見たことがナカッタノデスガ、オーストリアのスキーヤーの滑りを見てあまりのレベルの違いに、合格したのは嬉しかったけど、その嬉しさなんて簡単にぶっ飛んでしまったんですね。やっぱり、上にはとてつもなくうまい人はいるのだなと。自分はスキーに関しては何の実績もなく、たまたま趣味が高じただけの人間ですが、できることならこの業界で生きていけたら一番幸せなのではないかと漠然な思いがあったんですね。たとえば妙高にインカレやインターハイで実績のある人が来ると周りの目がぜんぜん違う。何か人ができないことをやらないと、この世界で生きていくにはとてもとても相手にしてもらえないんじゃないか、と思っていました 」。

 将来の進路に悩み、迷った挙句に今孝志が選んだのは、アメリカコロラド州にある 「コロラド・マウンテン・カレッジ 」に入学する道だった。オーストリアへの憧れも強かったが、すでに多くの実績ある日本人がオーストリア国家検定スキー教師の資格を取得して帰国していることを考えると、むしろヨーロッパよりもアメリカに可能性があるように思えた。

「アメリカという国の存在の大きさに触れてみたいと思って、アメリカに行こうと決めました。スキーを多少なりとも語れるようになるには、選手はもちろんのこと、メーカー、スキー場も含めて『世界の頂点』を知らずしては語れないなと思っていましたし、幸福は待っていてもやってこないじゃないですか。何事も自分から仕掛けていかないとと思って、とりあえずアメリカの大学のガイドブックを見ていたんですよ。そしたら、そこにスキーリゾートマネジメントという学部のあるカレッジがでてきたんですよ。そこがコロラド・マウンテン・カレッジでした。自分で行くところはここしかないんだ、と思いましたね。で、どんなことを勉強するのか自分でもよくわからなかったんですけど、とりあえず、そういう学部があるなら行ってもようと 」。

 1976年、今孝志は意を決してアメリカへと渡る。最初の半年間は言葉の壁にぶつかり、聞き取れない、理解できない、話せないの連続で、キックアウト寸前まで行くものの、ある日突然、言葉の意味を理解できるようになり、それからはほぼ順調にカレッジ生活が営めるようになったという。結局2年2ヶ月、彼は大学に在籍する。

「大学の授業の内容というのは、教えてくれるというよりも、ひとつの題材について考えるという形です。例えば、『こういう条件がありますが、君だったらどういうホテルをつくりますか』とか、図面を渡されて、『ここにあなたならどういうスキー場をつくりますか』とか。学校の先生が教えるというよりは、学生同士が集まって、いろんな班に分かれてディベートしながら学んでいくというやり方で、『こうしなきゃいけない、こうでないと駄目だ』という感じじゃないんですよ。常に、『あなたならどういう可能性を追求できますか』と問いかけてくる。そういった見方ですね。例えばアメリカも自然保護団体とかはすごく強いですから、日本の何倍も許認可的に大変ですが、それなら輸送施設は全部地下を走らせて、いきなり山頂にどーんとホテルを建てるとか。そうすれば周囲の自然を極力いためないで済むとか、そういう自由な発想をしていいんです。すごくおもしろかったですね。押し付けられるという考え方は全然ない。自分たちで勝手なことをしゃべって、それに対してみんながバーッと意見してくれて、共鳴してくれているのがわかるとうれしかった 」。

 大学に在籍中、スキー場にまつわる仕事に就くとそれが単位になるというシステムがあったおかげで、今孝志はヴェイルのインストラクターの仕事を希望する。スキーがうまくなりたい一心だった。そこで彼は、恩師となるアメリカプロスキー教師連盟副会長のホースト・エイブラハム氏と出会う。ホースト・エイブラハムは、アメリカのティーチングメソッドの統括役であり、その篤い人望で多くのスキーヤーから信頼される人だった。今孝志もまたアメリカにいる間、彼を親のように慕っていた。

「その人は『スキーというのはサムシング・スペシャルがあるんだ』とよく言っていました。『何か特別なものをそれぞれのインストラクターが、それぞれの目でいつも探す努力をしなければならない。スキーは他のスポーツにない、かけがいのない素晴らしいものがある。これがそうだとか、あれがそうだということじゃない。それぞれの人間のとってサムシング・スペシャルを探す努力をすればいいんだ』とよく言っていました。その言葉は自分にとってすごく大きな意味を持っていましたよね 」。

いかに利用者に喜んでもらうか。そこにアメリカでの経験が活かされると思います

アメリカでもカレッジ生活を終えた時に、今度はSIAが企画した交換スキー教師留学制度の第一号となってニュージーランドにひとシーズン留学するチャンスに恵まれ、着実に海外でのスキー事情を吸収していった。しかし、帰国した彼には日本の顔というものがなかった。日本のスキー界に知り合いもいなければ、つてもない。いつかアメリカで学んだことを日本で実現したい、と考えていた彼は、スキー雑誌の編集者になうことによって人脈を掴もうと考えた。知り合いに紹介され、1981年から3年間、取材で国内外を飛び歩く生活を選ぶ。

「自分としてはスキー雑誌の編集は3年でひと区切りにするつもりで、その間に日本のスキー業界をできるだけ勉強したいなと。それで日本のスキー業界を把握した上でスキー場開発をやっていきたいなと、最初から考えていました。ちょうど3年目に東京の不動産会社が舞子後楽園にスキー場をつくるという企画が持ち上がって、それを手伝わないかという話が自分のところにきたんですよ。懸命になって第三セクターをつくり、すべての許認可をクリアして、さぁ、いつでも着工できるぞ、というところまでこぎ着けたときに突然社長が『お前には悪いが開発をやめるぞ』と。その話を切り出されたときには、さすがに足元がグラグラときましたね 」。

 これまで今孝志がわずかなりとも関わったスキー場開発の話は50を超えるという。しかし、企画段階だけで終わるものがほとんどで、世の中に存在しているのは3ヶ所。それが現実だ。けれども、いま彼は『開田高原マイア』を仕事場にして、その経験とアイディアを存分に発揮している。そして、その仕事の中でつねに思い出すのはアメリカの経営者の軽快なスタイルである。

「日本人の経営者の人と話すと緊張しますよね。偉く見えてしまう。でもアメリカの経営者、ユタ州スノーバードのディック・バスとか、とてつもない石油成金のはずなのに、すごくフランクに話ができる。いくつになっても少年のようにその夢を語る。だから思わずグッと引き寄せられる部分がある。けれども日本の経営者は、どのぐらいのことをやれば、どのぐらいの収支になるんだ?え?なんて話になりますよね。たとえ同じことをやるにしても、お客さんにとってどうすれば喜ばしいスキー場になるかを考えてつくったスキー場と、まずどうすれば儲けられるかを考えてつくったスキー場では、とんでもない開きがあると思うんです。アメリカの経営者が持っている夢とか笑い、『こんなことをやったらおもしろいと思わないかワッハッハ』という豪快さ。それは自分がアメリカで学んだ理想の生き方なんです。当時、ヴェイルの経営者の話を聞く機会があったんですが、『我々は、いまは評価されるスキー場になったけれども、これがすべての目的じゃない。ここを訪れてくれた人が、こんな町に住んでみたい、こんなところで仕事をしてみたいと思ってくれるような場所と雰囲気をつくっていきたい』と。その言葉がすごく自分に影響を与えているんです。僕は日本でスキー場開発にいろいろ関わってきましたが、本当の町づくりというのは50年、100年かかる。彼らは10年後、20年後に死ぬかもしれないけれども、ここに次の人たちが住みたいと思えるような理想の町づくりを求めて生活しています。そのために、たまたまいい山があっていい雪が降るのだから、スキー場として山を利用しましょうかと彼らは考える。僕は開田高原という場所で仕事をしているだけで、町村の長であるわけでもありませんから、何とも言えませんけれども、アメリカの経営者の発想というのは、そういう視点から地域活性化を考えているわけです。私もここに初めて来たときに、峠からこの御岳山がバーンと見えたんですね。冬のドピーカンのときでしたからね。『いやーなんてきれいな山なんだろう。いい山だなぁ』と、本当に感激しました。それだけに、ここは官民一致協力して、本当にいい町をつくっていこうという思いで頑張れば、15年、20年後には素晴らしい地域になるんじゃないかと思うんですよ。そのために、我々はまずはスキー場として何ができるか、何を貢献できるかと。スキー場単独では到底限界があります。スキー場はひとつのきっかけとして頑張って、最終的にはこの村の将来が素晴らしいものになっていってほしいなと思っています。ここは1557?あって、夏はクーラーもいらないようなところですから、まずスキー場を中心としたものから始めて、なんとか一人前にしていく努力をしていきたいなと 」。

 近年、高速道路網が整備され、首都圏から遠くにあったスキー場へのアクセスが一段と楽になった。しかし、『開田高原マイア』へのアクセスは決して楽ではない。東京からならば塩尻インターチェンジを降りてから国道を70km走らなければならないし、名古屋方面からでも中津川インターチェンジを降りて90kmという距離にある。しかし、その距離を走っても損をした気にはまずならない。余りある自然がそこに残されているからだ。

「自然回帰路線じゃないですけど、ここはやがて凄い評価の出る場所になる気がするんですよ。人の価値観は違いますから一概には言えませんが、本当に人間としてストレスを感じなくて、充足された日々を送れるような土地として、ここは大変な魅力を持っている。そういうところとして自然を保全する必要がありますし、俗化されては絶対にダメだなと思います。オーバーな話になりますけど、人々が心から癒される場所として選択するのがここであってほしいなと思います。ですから、この土地というのは凄い可能性を秘めていると思います 」。

心も身体も健康になって帰っていただくことが最高のお土産です

今孝志が生まれた山形県小国町は日本有数の豪雪地帯。冬になると、かつては陸の孤島と化し、二階の窓から出入りしなければならないこともあるほどの土地である。彼にとって雪は無益な単純労働を強いるやっかいなお荷物でもあり、かつ大切な遊び相手でもあった。暗く単調な冬の間、遊びとは与えられるものではなく、工夫して生み出すものであり、それが当たり前のこととして彼の中に宿った。

 冬になると、いつも何かおもしろいことはないか、何か心を掻き立てる術はないかと考えながら少年時代を過ごす。外の世界に対する強烈な憧れ、限りない喜びと同時に過酷さも教えてくれる自然。彼が生まれ育ったその場所は、彼の人格形成に深く関係している。

 そして、まるで身体に刻まれた遺伝子の命令に従うかのように、ひとつひとつ歩を進めて行ったその先に、現在の仕事が待っていたように思える。自分にはスキーの仕事に携わるルーツも実績もないと感じ、後から必死でそれらを吸収していった彼ではあるが、実のところ、もっとも根本的な部分で、彼は大切な資質を持っていたのではなかろうか。開田高原というフィールドでの彼の仕事はそう感じさせるものだ。

「お客さんが、このスキー場に朝来てくれて夕方帰るときまでに、キザに言えば我々がお客さんに対して何を与えてあげることができるかということですね。我々が与えてあげることのできる最大のお土産というのは、簡単に言えば『スキー場に来て遊んで良かった』と。理屈っぽく言えば『心も身体も健康になって帰っていただくことが最大のお土産だ』と。朝、駐車場に入って来られてから帰宅されるまでの間、どうやってお客さんに喜んでいただくのか。それは単に施設にお金をかけてお客さんを呼び込む作業とはまったく異なった、ハートの問題だと思うんです 」。

 スキー場はエンターテイメントビジネスだと今孝志は言い切る。夢を語り、夢を売るのだ、と。そしてそれを続けていくためには、ウインタービジネスをどう活性化させ続けていくかを考えなければならない。今後の展望を彼はどのように予想しているのだろうか。

「一般論で言うなら、日本のスキー場の需要と供給のバランスがくずれて、少子高齢化、レジャーの多様化、景気の不透明感というのが重くのしかかっているわけです。引き続きスノースポーツを取り巻く環境は厳しいの一言に尽きるわけですが、そんな中で生き残っていくためにはやはり競争力をつけるしかありません。昔はスキー場にリフトがあればいいという時代があって、その時点ではたとえ品質が少々悪くても需要が供給を上回っていましたから、単にニーズだけで売れたわけです。ところが今日のようにスキー場が750ヶ所にもなってくると、いかに利用者の『ウォンツ』を的確につかまえて、即実行していかないと、到底生き残れないよな状況だと思います。良し悪しではなく、スキー場はまちがいなく『パーク化』していきます。スキー場の規模や資質だけで勝てる時代は終わって、これからが本当の意味で実力が試される。競争力のない商品は売れないという市場原理がスキー場にも当てはまる時代が来たんだと思うんですよ。知恵、信念、実行力などの差でユーザーから評価されるスキー場と、そうじゃないものとにドンドン選別されてくるでしょうね。もちろん、我々も負けるわけにはいきませんから、それなりに競争力をつける努力はしているつもりです。今、実際あるコース・ゲレンデをどう有効利用したらお客さんに喜んでいただけるかというのが、我々が常に考えていることなんですよ。毎年毎年、いろんな試みがあります。今年はスノーボードパークをつくったんですが、これをフリーライドパークに直そうと思っているんですよ。いま彼らが求めているファンスキーなど、いわゆるフリーライドパークを全面的にして、お客さんの動きを見てみようと。喜んでくれるんであればもっとやるかもしれませんし。あと、普通のコースにおいても、ただ単に圧雪されたコースだけで本当にいいのだろうかと。お客さんはもっと違うことを望んでいるのではないかと。たとえば、上のコースをある時は半分全部コブにしたり、ある時は全然圧雪しないでパウダーバーンにしたりとか、いろんなことをやるんですよ。夜、『明日これはパウダー抜群だな、と思ったら圧雪部隊に今日は踏まないでいい』と指令するんです。10cmくらいの新雪なら一般スキーヤーでもまったく抵抗なくやれるから、とにかく新雪を残して、全員で朝一に滑りに行く。そうやって実際にお客さんがどんなことをしたら喜んでくれるのか、これは毎日考えますね。日替わりメニューじゃないですけども、コースも幅がありますのでここからここまでは圧雪かけて半分はかけない。次の日は逆にしたりとかシーズン中はそんなことを毎日やってます。土、日とか泊まられるお客さんに直接聞くと『いやぁ、おもしろいよ』とか言ってくれる人がいると嬉しくなりますね。そういうことは、ここのスキー場ではできるだけ続けていきたいと。その中からある種各個たることを見出していけるんじゃないかと。ずれにしても情報産業をはじめとして、今後ますます世の中のスピードが速まることを考えると、いかに多くの人たちに夢や喜びを提供できる場所であり続けることができるかと真剣に思っているんです 」。(文中敬称略)